死んだらどうなるか、自分で決めよう② ~人or私は死ぬのか編~

まず、人が死ぬとどうなるか。

・動かなくなる

・しゃべらなくなる

・呼吸や心拍が止まり、体が冷たくなる


これを単純に「私」に当てはめてみると、私以外から観察すれば(多分)同様のことが「観察」できる(でしょう)。

逆に死んでいない(生きている)とは、

・動く

・しゃべる

・呼吸や心拍があり温かい


ところで、人間の生死の判断は、医学的・生物学的知見に基いて行われます。否、それどころか、他の動物や生物の多くも、物理学、化学、生物学等々の、いわゆる自然科学の知見に基いて生死の判定が行われています。もちろん、「私」の生死判定も同様の基準で行われます。

ところで、この自然科学の知見(に基く生死の判定)とは、多くの観察対象を観察対象でない者が観察することによる帰納的な判断の結果で、観察者か否かに関係なく、これまでの多くの観察事例によってどうも人間(というか生物)はいつかは死に、死ぬ際はこういう状況(というか、生きているとはこういう状態)が観察される、ということになりました。つまり、誰でも同じ人間という大前提、というより、もはや当然のこととされたうえで話が進むのです。

境界例として脳死の議論がありますが、脳死は人間の「死」かどうかの判定も、上記大前提に基づいて行われます。つまり、

「私」は特別な存在ではなく、他と同じ人間である

として扱われる‥‥という、当たり前の話です。


しかし、この「私」の生死判定には、おそらく一番の利害関係者である私は参加できません。判定対象の私が存在しなくなるので、それは当然だとは言えますが。しかし、はい、わかりました、そのとおりですね、で終わってしまえるだろうか。生死判定に使われる、上記大前提は、「私」にとっては本当にそうなのか。そもそもが観察事例の帰納的判断の結果として、私はその他の人間と同じだとされたに過ぎないのでは。





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