死んだらどうなるか、自分で決めよう③ ~死んでいるとはどういうことか編~

ここで、(人or私は)死ぬとして、では死んでいるとはどういうことなのか、少し考えてみます。

まず、「死ぬ」のはある時点を指し、その時点以後の状態は日本語では表現がありませんが、英語では「死に続けている」という表現がある、と以前教わった記憶があります。例えば、彼は5年前に死んだ、というのを、確か、現在完了形を使う場合の例文として

He has been dead for five years.

直訳すると「彼は5年間死に続けている」となる?

これを聞いたときは、小々驚きというか、日本人の発想にはないのではと(勝手に)思いました。

その反対に、「生まれる」は時点で、それ以後は「生まれている」ではなく「生きる」と、異なる言葉で表わされます。英語でも、「生まれ続けている」とは言わないでしょう。


では、この「死に続ける」を死んだ後の状態として、さらに時間的に反対側にも拡張し、生まれる前の状態を「生まれることを待ち続ける」とでもしましょう(小々変な表現ですが)。すると、


①生まれることを待ち続ける ➡ ②生まれる ➡ ③生きる ➡ ④死ぬ ➡ ⑤死に続ける


②と④は瞬間(=時刻)なので、時間区分では、②と④で区切られた①、③、⑤になります。

ここで、③をさらに、生きている=意識がある、つまり(荒っぽく)眠っている間は生きていないと見なすと、例えば、朝7時に起きて夜11時に寝る場合、1日のうち8時間は生きていない(夢を見ている間はどうなのかは、のちほど)ことに(人生の3分の1を快適に過ごしませんかという、寝具メーカーのCMがあったような?)。つまり、生まれてから死ぬまでのうち意識のある間だけ生きていることに(しましょう)。

ここで、①は無限に続いてきたのか、⑤は無限に続くのか、という疑問が。とりあえず、前者はビッグ・バンで、後者はビッグ・クランチで制限されるとの仮説に従うと、今度はビッグ・バン以前、およびビッグ・クランチ以後はどうなっているのか、とさらに疑問は続きます。これは、世界をあたかも人の誕生(ビッグ・バン)から死(ビッグ・クランチ)になぞらえるように見て、上記①~⑤の区分図は次のように書き換えることができるのでは。


①世界が生まれるのを待ち続ける ➡ ②ビッグ・バン ➡ ③世界の継続 ➡ ④ビッグ・クランチ ➡ ⑤世界がなくなったまま続く


人の場合は、(常識的には)その人の生前・死後にも、やはりその人のいない世界が続いていると考えられるので、世界の存在or存続(=③)を考えるには、その外側(①および⑤)が必要なのでは、と(自然に)考えられます。外側=視点と言ってもいいかも知れません。

人の場合は、その外側は(その人がいない時間)が続いていると考えられる一方、今の宇宙理論では①と⑤は時間がない(=世界の始まりの前と終わりの後)ので、どう表現すべきなのかわかりませんが、①と⑤が何もないままだと、どうも落ち着かないというか気持ちが悪い。世界が存在することが腑に落ち納得するには、それ(=世界)が乗っかっている舞台orベースorフレームのようなものが必要なのではないか。それは、通常数直線で表される(というかそれ以外で表しようがない)時間ではない何か。


話は変わりますが、「死んでいる」は「生きている」の否定(¬生きている)と見なされているので、例えば、数学で使われるベン図で考えると、「生きている」の円(エリア)以外の部分が「死んでいる」になります。

しかし、ベン図には何故か?外枠があります。ここで、その外枠は枠の中の事柄を語るための舞台orベースのようなものと考えましょう。つまり、もしその舞台orベースがないとその中でいろいろ語ることができなくなると。すると、外枠が満たす条件は、枠内を語ることができることであり、その条件の一つとして「生きている」ことが挙げられるのではないでしょうか。そうなると、「死んでいる」ことはもはやベン図の中には書けなくなる? ‥‥という強引な説明。

あるいは、外枠がなければ書けるのでは、と考えると、それは再び数学の記述のようなものに戻ってしまうのかもしれませんが、それでは本稿の趣旨とは違う方向へ行ってしまいます。


この続きは、上述の舞台、ベースについて、これまで非常に啓発された永井均氏の哲学を参考に、書き進める予定です。

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