死んだらどうなるか、自分で決めよう④ ~〈私〉は死ぬのか編~

諸事情により、第3回より間が空きましたが、今回は哲学者の永井均氏の言う「独在性」の考え方を参考にして考えたいと思います。

永井氏の主張は非常にシンプルで、しかもほぼこれしか言っていないとも言えますが、逆になかなか他の人に伝わらないとのことです。

その主張は簡単に言うと、「世界に数多いる人間の中で、その目から本当に外界が見え、その体を殴られれば本当に痛く、本当に物事を考えられるのは、この私一人だけ」というもの。しかしこれは言った途端、他の人間から「いや、それは私も同じことだ」と当然異論が出ます。さらに、「いや、私だけが見え、痛く、考えられるのだ」と繰り返しても一緒です。多分、「私」という言葉を使う限りはだめで、永井氏はこれに〈私〉という表記をあてたり、独在性と言ったり、私以外の他人の「私」を《私》と表記して区別していますが、なかなか理解されないようです。氏は、世界は実は〈私〉と多数の《私》たちから成るいびつな構造になっているので、〈私〉を《私》たちと同列のものに見なすことで初めて全員が並列的に存在する普通の世界観=ものごとの理解の基本形式になる、ということです。これにより、すべての人にとって「私」があって並列同格的に存在していることになるわけです。

確かに、冷静に考えてみると、本当に見え(てい)るとか、本当に感じ(てい)るとかは、いつもいつも例外なく〈私〉だけです。さらに言うと、本当に夢を見るのも、本当に死を恐れるのも〈私〉だけです。言い換えると、世界は〈私〉からだけ開けています。

そして、次のステップとして、周囲にいる(見える?)他の人間と本当の視点の出発点(=〈私〉)を同列なものとみなすことで、多数の人間が並列的にいる、永井氏の言う「のっぺりとした」世界ができるわけです。このとき、周囲にいる他人についてのコメント(例えば、〈私〉の場合と同じように、その人(から)だけ見え、痛く‥‥のではないかとか、逆にその人は実は意識があるかどうか確かめられないとか)をしない(というよりできない))のは、(もとに戻って)〈私〉からだけ(いわゆる)世界が開けていること、から出発しているからです。では、なぜ、〈私〉をわざわざ(それについてはノーコメントの)周囲(の人間)と同列なものとみなす(orみなさねばならない)のかは、それが人間社会を構成し営んでいく条件だからなのでしょう。


以上のことから言えるのは、最初の〈私〉が突出したいびつな世界では、〈私〉だけから世界が「本当に」開けていて、〈私〉がなければ本当に何もないに等しく、一方、その後の、ものごとの理解の基本形式に従ういわゆるのっぺりした世界では、〈私〉はどこにも見つからないということです。さらに言うと、本当に「死ぬ」のも、やはり〈私〉だけだが、その「死」(およびそれを含む世界)を有らしめているのも〈私〉だけ、ということです。

つまり、ある意味では〈私〉は、その上で世界が開ける舞台、ステージ、フレームであり、そこにおいて「死」を含むあらゆるものがある(産み出される)。

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