死んだらどうなるか、自分で決めよう⑤ ~心身論的に見てみると編~

前回の永井氏の独在論では〈 〉と自分の生身の身体との関係がよくわかりません。そこで、死を心身論的に見た場合どうなるのかと併せて考えてみたいと思います。


まず、心身一元論。といっても、唯心論は置いておいて、唯身論(唯物論)から。心(≒意識)は結局物理学によって説明される、つまり心は物質やエネルギーなど物理的実在(とされるもの)に依存(depend)することに。

一方、心身二元論は、身体は物理学(生物学、医学、心理学含む)の範疇に、心は魂?として別のメカニズムで説明される。この場合、あらたな学(魂理学?)が必要になるが、心は新たなそれに依存することに。

いずれにせよ、心は何らかのよりどころ、依存先、dependするもの(物理的実在や魂)を必要とするのでしょうか。これは、そういう拠り所なく、心がいきなり生じたり消滅したりするとすれば、我々はそれに耐えられないからではないかということなのか。そしてそのよりどころ(物質や魂)は死によって消滅することもなく(エネルギー保存則?)存在し続けるのです!?


これらに対し、永井独在論では、〈私〉はたまたまそれを宿す身体とは関係なくそこに存在し(=なぜ〈私〉はこの人間なのだろう)、その結果としていきなり消滅し得るとしています。つまり上記で言う拠り所、依存先、dependするものがない! もちろん、〈 〉理学を考えることもできますが‥‥。


ただし、例えば、いわゆる痛みという「知覚」は、物理的(生理学的)レベルで神経から脳に刺激が伝わるメカニズムとして解明(=相関関係あり)されていて-これを受肉と言うとのこと-、そうなると〈 〉も唯物論的に説明がつく可能性もあります(=いわゆる唯物論的独在論。筆者はこれに大きな期待を持っていますが)。


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ここで、唯物論と(素朴)実在論についての小考を。

唯物論は、当然世界はそのとおり?われわれの外部に(見たとおり)存在する、ということが暗黙の前提になっています。カントの物自体を持ち出すまでもなく、その前提は確かなものではありません。それは、多数の主観の集まり(平均)はまあ確からしいだろう(=客観)としたものにすぎないのでは。しかし、それでも世界をとらえるには十分な確からしさを持っている?





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