オッカムの剃刀の前に

「オッカムの剃刀」とは、WEB検索してみると、おおむね

ある事柄を説明する際に、必要以上に多くのことを仮定するべきではない

ということのようです。これと同じ意味ではありませんが、似たこととしていつも思うのは、日本語が外国語に比べて、その使用する文字の種類があまりにも多いということです。ひらがな、カタカナに加え、膨大な数の漢字! 自国語に使われる文字のうち知らないものがある(日本人全員が当てはまると言えるのでは)という言語は世界には例がない? 漢字の大元の中国ではどうか知りませんが。

逆に、他の外国語は数少ない文字を組み合わせる単語について、同じことが言えるのでしょうが、それにしても、対照的な方法を採る日本語とその他言語を比べても、漢字の種類の多さと聞き言葉での同音異義語の存在は、日本語を最高難度の言語にしていると思います。


しかし、その逆に必要な道具立てが揃っていない場合の方が致命的な場合があるのではという事例を。

(例えば)英語と比較して、日本語が決定的に優れていると思われる例がありました。それは、漢字の多さや難しさとは関係ありませんが、哲学の概念でいわゆる、本質と実存の対比と言われているもので、「~がある(実存)」と、「~である(本質)」の違い・区別は、日本語では間違いようがありませんが、英語ではbe動詞しかないので、文脈に応じてどちらの意味なのかを理解する(しかない)とのことです。なので、間違う余地があるように思います。これは、日本語の「助詞」(これも厄介です)が威力を発揮する例です。

また、カントの「純粋理性批判」の中の議論で、(英語に相当する)「subject」を、(行為等の)主体と解するところを(言語の)主語と解したため(英語では、どちらの意味もあります)、意味が分からなくなっているのではないかとのこと(だと、教わりました)。

かように、いくら厳密に哲学上の議論をしようとしても、それを表現する言語システム自体に不備・欠陥?があるとすると、限界があるように思えます。

C5552's Ownd

語り得ぬものについては沈黙せざるを得ない

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