自分ガチャ
最近、「親ガチャ」という言葉が流行っている?そうですが、またまたWEBで検索すると、
どんな親(家庭)から生まれてくるか?
を意味するスラングで、自分の努力では変えられない要因を指す(ようです)。
しかし自分の努力では変えられないものは他にもあるのですが、その前に、自分の努力で変えられる(と思われる)ものについても、本当にそうなのか。突き詰めると、哲学的には、自由意志論 vs. 決定論ということになりそうです。
ここで、その両論についての詳細には立ち入りませんが(個人的によく知らないし、あまり興味もないので)、別の観点から考えてみます。
親ガチャは、時間的には現在に、地理的には日本に限定された人間という、ごく狭い範囲を前提にしている(=そこで生まれる子供の総数を分母にしている)と思われますが、自分の努力では変えられない( or なかった)ものとしてはもっと考えられそうです。例えば、男 or 女のどちらに生まれるか、どの時代に生まれるか、どの国に生まれるか、人間に生まれるか否か etc. さらに詰めていくと、時間的には、生命誕生の遠い過去から現在まで、また空間的には全宇宙の中に数多ある( or あった)生命を前提(分母)として、(この親の下で)誕生した自分、というふうに考えるべきなのでは。すると、その確率はほぼゼロになる!
しかし、この考え方はやはりどこかおかしい気がします。むしろ、いままで無数に存在した生命のうち、なぜ自分が(この親の下に)生まれたのか、というふうに考えれば、何か奇跡的なことが起こったのではないか。これは、哲学者の永井均氏がいうところの「独在性」に似た考え方ですが、永井氏は、私はなぜこの(自分である)人であるのかと問い(その私を〈私〉と表記することで、この(自分である)人と区別しています)、その理由はわからない、としています。このあたりの詳細は、氏の諸著作を参照ということで。
親や家庭云々というより、むしろ私はなぜこの(自分である)人に生まれたのか、と問う方が、より興味深いのではないでしょうか。原始時代でもなく戦国時代でもなく、また原生動物でもなく魚でもなく、別の人種でもなく、まさに現在の日本の特定のこの人として。
逆に、このことは、どんな生命にとっても言える!(だから、生命は貴重だと言っているのでは全くありませんが)
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