上部構造はあるか
大昔、社会思想概論という講義を受講し、その中で社会の下部構造(経済的関係)が上部構造(法律、政治、道徳、芸術など)を規定する、よって下部構造こそが重要だ云々という思想が紹介されましたが(マルクス主義理論だと思われますが‥‥。詳しく知らないので違うかもしれません)、これはつまり、腹が減っては何とやら、当然そうだろうなと変な納得をした記憶があります。これをいきなり個人的な活動レベルで考えると、いわゆる「生活」に必要不可欠な活動(下部構造)と本来やりたいこと・やるべきことを行う活動(上部構造)に分かれ後者は前者に依存する、また人生の持ち時間に置き換えると、後者に充てる時間(自由時間)は前者に要する時間(拘束時間)を差し引いた残りである、というふうに言えるのでは、と当時は永遠の真理を発見したような気になっていました! また、別の某先生は、経済学の目的・存在意義は、人が本来やるべきこと(=人生について考えること)を妨げている経済的な諸々の障害を取り除くことにあり、それらがすべて取り除かれた暁には経済学は不要になると思う、が、当分その時は来ないだろう、と仰っていました。
さて、個人の上部構造とは何でしょう。これは、幸福(をもたらす何か)や生き甲斐などと言い換えられるかもしれません。例えば、幸福な家庭生活を送り子孫を後の代に残すこと、または何かひとつでも人類のために貢献し(できれば)名を残すこと、あるいは大金を稼ぎ自分の欲望三昧の生活を送ること、など。はたまた、全く正反対に、そんなものは存在しない、生きる意味はない、という結論に至るかもしれません。
私の場合いろいろ考えてみて、あるとき実に変なものがそれではないか、と思い当たります。それは、
眩暈がしないこと
その当時は、時々原因不明の眩暈に襲われ、自分の立っている大地(まさに下部構造?)がぐらぐらと不安定になる感覚の恐ろしさは想像を絶するものだったためです。しかしこれは、上部構造(すなわち幸福の源や生き甲斐)というより、まさにそれらを支える下部構造の安定そのものではないか、事態が循環してもとに戻ったようなものです。
このことから、
上部構造とは、上部構造が何かをゆっくりと考えられる状態にあること
という禅問答のような結論に至ります。
今のところはこれ以上考えても進展はなく、逆にこれこそがゴールではないのか、というところでお茶を濁しています。
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