(私的)時間実感
巨大なテーマである「時間とは」に立ち向かう前に、現在の時間実感を記しておこうと思います。とりあえず、語り得ぬものを疑似的表現・イメージで表すと‥‥。
走行する列車の(側面の)窓から外を眺めている。
窓から少し身を乗り出して進行方向を見ると、遠くにあったものが次第に大きくはっきりと近づいてくる=未来のイメージ。
同様に反対方向を見ると、今見ていたものが遠ざかり、次第に小さくぼんやりとしか見えなくなる=過去のイメージ。
列車や車内(=自分自身)はそのまま、何も変わらず変化しない。
そして、実は、列車が走っているのではなく、窓外の景色が前から後ろに移動しているので列車が走っているように感じられるということに気が付く。
そして、さらにさらに、窓外の景色は、実は映画のスクリーンに映し出された映像(のようなもの)で、乗っている列車もその走行音や振動に至るまで外の景色に合うように作られたものであることに気付く。実際に動いているもの、変化しているものは何もない?
と言うのが、差し当たっての現在の私の時間実感です。非常に拙い表現ながら。
時間論でよくある、「今」が過去から未来へ敷かれたレール? の上を進んでいく、といったイメージは全くなく、自分は全く固定・不変であり、その自分の周りが絶えず変化していく、といった感じです。
さらに突き詰めると、この「自分の周り」には、自分以外の全世界に加え、自分の身体(脳を含む)も含まれ、さらにそのときの感覚(を感じている?こと)、思考(をしていること)、記憶(を再生していること)など、その時点で自分が経験している、いわゆる〇〇-ingとでも表わされることも含まれます。
ここで時間論から脱線してしまいますが、「自分の周り」というときの「自分」とは、上記から引き算をして、一般的な自分(の意識)というよりさらに範囲を限定した、否、範囲云々というレベルではなく、もはや端的に「この」感じ、あるいは「それ」、永井均氏の〈私〉に相当するのではないかと想像されます。
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