モナドと独在性

これまで独在性から関連・発展するいろいろなことを考えてみましたが、よくわからないライプニッツの「モナド」についても、こういうことなのではと思われることを。

ライプニッツの著書(モナドロジー)を読んだ限りでは、モナドとは現代物理で解明が進む物質の究極単位?のことなのではと思っていたのですが、WEB検索すると、モナドとは、

部分をもたない単純な実体で,物質的ではなく霊的なもの

というあたりにまとめられるようですが、物質ではなく精神だという説明もあり、なあんだそんなことか、と。それでは、物質と魂云々の悪しき形而上学?に舞い戻ってしまう?

しかし、物質か否かは置いておいて、存在するものの究極単位のことだとすると、どうもモナドは複数あるとのことなので、心身一元論ではクオーク、心身二元論では心(精神)などと呼ばれているものをさらに突き詰めた究極の何かになるのでは。

一方、ライプニッツは、不可識別者同一の原理(2つのものの性質が同一であり区別が不可能ならばその2つは同一)を提唱していますが、実はモナドを念頭に置いて裏の意味(どんなに類似していても、必ず差異がある)を言いたかったとのことです。


と、ここで永井独在論です!?

「人間には神経があり、それを刺激するとだれでも痛みが生ずるのに、「本当に」痛いのはなぜ〈私〉だけなのか。」

さらに、

「私が、物理的に同じ身体を持ち(ゾンビではなく)普通に心も感覚も持っている2人に分裂するという思考実験で、なぜ「こちら」が私で「あちら」が他人なのか」

モナドとは〈私〉なのか?

そう簡単ではありません。


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