科学は哲学より奇なり

前投稿で、受講中のカント純粋理性批判の講義で二律背反の箇所まで進んでいることを書きましたが、関連して掲題について。

というのは、その二律背反のうち、世界に始まりはあるのか、空間に限界はあるのか、について、現在の自然科学は一応の?答えを出している(と思われる)。前者はいわゆるビッグ・バンであり、後者はハッブルの法則(天体への距離とその天体が遠ざかる速度が比例→光速で遠ざかる天体が宇宙の果て)と。なぜ、そういうことが言えるのかは理屈は分かりませんが、諸々の観測による検証からの帰結なのでしょう。

これについて、ビッグバンの前は世界は(or 時間は)なかったのか( or 世界はなく時間だけが経過していたのか)とか、世界の果ての外側はないのかとか、問うことはナンセンスではないか。それは、すでに時間や空間が世界の入れ物(枠組み・舞台装置)であるという前提でこの検証結果を見ているからで、逆に検証結果として時間や空間はこうなっていると言っているのではないか。

ほかにも興味深いことがいくつか。

例えば、

 *他人とは世界を共有できない

他人とのコミュニケーションや他人と同じものを見たり聞いたりする際に、自分と他人や事物の間は距離があるので、音速や光速が有限である以上他人と「同時に」それらを捉える=共有することはできない。これは、当然のことなのだが、哲学的にも永井均氏の「独在性」によってダメ押しされました。

 *私は死なない~光速移動で時は止まる

自分(私)と、光速で移動する誰かを想定してみると(例えば、上記光速で遠ざかる天体にいる人やブラックホールに落ちてゆく人)、計算上その人の「時」は止まることになる。逆に言えば、その人から見た私の時も止まる? つまりその人から見た私は死なない!?


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これら自然科学によって明らかになることは、すべて観測による仮説の検証に依存しており、それを支える土台は計測された時間に行きつくように思われます。しかし、本投稿で以前から書いているように、時間の計測においては天体や原子など周期運動するものを大前提にしていて、本当にそう(周期運動している)かは分からない。あるいは、周期運動そのものが一定の時間間隔で繰り返すことなので、すでに時間について論点先取りになっている? なので、「時間」とは何かは全然わかっていない(と思いますが‥‥)。

C5552's Ownd

語り得ぬものについては沈黙せざるを得ない

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