「存在」にはその舞台・背景が不可欠
前投稿で書きました、「動かない」を「動く」で表す、という逆転の発想についてです。
例えば、太陽(天)と地球の関係を考えると、昔は素朴に太陽(天)が動いていると思われていたのが、実はこちら(地)が動いていることが分かった。ところが、実は太陽(天?)も属する銀河の中では動いており、その銀河もまた‥‥、と切りがありません。
つまり、動く・動かないとは、相対的なもの、というより、見る側は常に動かず見られる側は常に動く~見かけの動きとは言い得て妙です~とも言えるのでは。なお、同じ速度で並走しているクルマ同士のように両方が動かない(ように見える)のも、道端から見れば両方動いています。なので、動く側から動かないを考えるといっても無理です。これは、物理学をはじめ自然科学を持ってきても無理だろうと思います。観測・観察するものは動いていない(という前提)。
これは単なる認識論の話だろうと思われますが、存在論的に考えてもあまり変わらないのでは。というのは、何かが存在する/しない、といっても、その舞台・背景がどうしても必要だろうと思われます。何もない(=無?)ところに「ある」と言っても、「何もない」という舞台・背景が用意されている?
そして、動く/動かない、にしても何らかの舞台・背景においての話では。つまり、その舞台・背景が、認識論でいう認識主体の視点(=いわゆるどこからでもない視点)になるかと思います。因みに、いわゆる(素朴)実在論とはみんなの視点を総合(平均)したものであるとして、認識論と存在論の対立?を個人的には整理したいと。
では、数字などの概念はどうかと考えても、それは人間の頭の中(もちろんアナロジーです)という舞台・背景にある(と思います)。
永井独在論で考えると、すべては〈私〉において「ある」(=〈私〉から開けている)となりますが、これからいろいろと展開できるので、また別稿で。
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