〈私〉vs. どこからでもない眺め

掲題は、トマス ネーゲルの著書から引っ張っていますが、まず前々投稿で予告した「私以外から見た」について。

これは、私以外の数多の視点からの眺め(の総合・平均等々)、簡単に言うと科学の描く世界、実在論、ごく普通の常識的な見方、客観的な、云々ということになるかと思います。しかし、これら数多の視線・視界の(〈私〉以外は)どれ一つとして本当に見えているのではなく(という表現でいいのか)、見えていることになっているという前提でのものです。「どこからでもない」とは、特定のだれかの視点ではない、という意味と、(〈私〉以外は)その視点は実際に見えているのではなく前提されたもの、という意味があります。

しかし、それは言ってしまえば作り物の眺めであるはずなのに、実在するかのようなものになっています。本当に見えているのは、これ(=〈私〉)だけなのに。


と、永井独在論に引き戻されますが、ここで、前々&前々々投稿で記した、本当に夢を見るのは〈私〉だけ~〈私〉は片時も途切れない、の話に戻って、夢から覚めて初めて夢を見ていたとわかる、ということについて。

じつは、このことは夢に限らず、現実のできごとについても言えるのではないか。

前々々投稿で、現実に読んでいる本の内容が急に変わってしまい、それは夢を見ていたのだと後で気が付く話を書きました。この変わる前が現実で変わった後が夢なわけですが、では変わる前が現実だということは、変わる前の内容を読んでいた時に気が付いていたでしょうか。そうではなく、やはり変わった後の内容(を読んでいたこと)とと併せて変だと気付いて夢から覚めた後でわかったのでは。

しかしそんなことがあるのか。例えば、(夢ではなく現実に)本を読んでいる状況を考えると、本当に本の内容に没入?していれば、その「読んでいる」のが現実なのかどうか分からない、というより意識が本の内容の方に向いていて「読んでいる」状況には向いていないのでは。もちろん、読むことを中断すれば、さきほどは現実に読んでいたとわかるでしょうが。(もちろん、それを眺めている「私」以外からは、「私」はそこで本を読んでいる→中断して視線を上げる、と継続して観察されます。)

本を読むことに限らず、何をしていても(何もせずにいても)、今は現実だ(=夢ではない)と思わない限り、その時は後から現実だと気付くのでは。もちろん、その気付くことが夢のようにある纏まりに対してではなく、頻繁に or 不断に起こっているのでしょうが。これを、〇〇をするのに夢中だった、〇〇に夢中で気が付かなかった、と表現されるのは、言い得て妙では。





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